前回投稿の予告通り、旧木津町内の石碑をご紹介したいと思います。
不定期ですが、連載のつもりで『石碑に教わる木津の歴史と先人の思い』という題も考えました。
一基目にご紹介する石碑は『岡田国神社社号標』です。
御笑読いただけると幸いです。
石碑に教わる木津の歴史と先人の思い①~岡田国神社社号標~(上)
●岡田国神社で見つけた意外な人物の名
突然ですが、皆さんはNHKの大河ドラマをご覧になっていますか?
私は好んで、特にここ十数年はほとんど毎週欠かさず視ています。
史実を扱ったテレビドラマや小説、漫画などは、その作品を楽しむでだけなく、そこに描かれた人物や事件にゆかりの古跡を訪ね歩くきっかけを与えてくれます。
木津の文化財と緑を守る会に入会し、たびたび木津を訪れるようになった私は、その年の大河ドラマにゆかりのある場所を木津や周辺地域に探すようになりました。そんな中で、三年前に見つけた意外な人物にゆかりの石碑をご紹介します。
JR木津駅の南約1km、東山の山裾に鎮座する岡田国神社は木津や周辺地域にお住まいの方ならきっとよく知った場所だと思います。
国道24号線の大谷交差点そばの鳥居から始まる参道は専用の跨線橋となってJRの軌道を越えて境内へと渡され、初めてその奇観に目前にした私は、これを徒歩で渡ってもよいのだろうかと戸惑ってしまいました。
その跨線橋を渡りきった左手に「式内郷社 岡田國神社」と刻まれた石碑が建っています。
神社やお寺の名称を記して門前などに建てられるこの様な標柱のことを『社号標』や『寺号標』といいます。
「岡田國神社」の上に刻まれた「式内」とは、ごく簡略にいえば、延喜式神名帳という平安時代の神社のデータベースに掲載されている神社であることを表す称号です。
また、「郷社」とは国家が神社を格付けして管理するため明治4年(1871)に制定され、昭和21年(1946)に廃止された社格制度による格付の一つで、都道府県よりは狭く村よりは広い、幾つかの村を集めた地域全体の氏神社の格で、岡田国神社の場合は木津本郷と呼ばれた、小寺・大路・枝・千童子・上津の五か村(明治8年に合併して木津村が誕生)の氏神社でした。(※1)
さて、神社やお寺には必ずといってよいほどある社号標や寺号標は、参拝の際には必ず目に入りますし、記念写真の背景に写せば、どこで撮った写真なのか後ほど一目瞭然で、きっと、そのような写真が多くの方のアルバムやパソコンにも入っていることでしょう。しかし、その石碑の側面や裏面にまで関心を寄せたことのある方は少ないのではないでしょうか。
私が岡田国神社で見つけた意外な人物の名は、その社号標の側面に記されています。
岡田国神社社号標の四面に刻まれた文字(碑銘)はそれぞれ下の通りです。
正面(碑陽面)…「式内郷社 岡田國神社」
裏面(碑陰面)…「祠官 中岡義利」
向って左側面…「明治十五年春三月建之 氏子中 敬白」
向って右側面…「東照宮々司正四位源容保謹書」
左側面からは明治15年の3月に神社の氏子組織がこの石碑を建てたことが分かります。また、裏面にはその当時の岡田国神社の神主であった中岡義利の名が刻まれています。問題は右側面の人物「源容保」です。よく知られた苗字ではなく、「源」という本姓(氏族名)で記されているため分かりにくいですが、少し歴史に詳しい方は「容保(かたもり)」という名で気がついたことかと思います。
戊辰戦争での白虎隊の悲劇などで知られる江戸幕末から明治維新期の会津藩の藩主で、新選組などを預かる京都守護職を勤めたことでも知られる松平容保の名です。
私がこの石碑に出会った2013年のNHK大河ドラマでは、ちょうど、幕末の会津藩出身で、会津鶴ヶ城の籠城戦では男達に混ざって鉄砲をもって戦ったとされる山本八重子を主人公にした『八重の桜』が放送されていました。当然、会津藩主の松平容保も物語の中で重要な人物として描かれていました。
しかし、会津藩や松平容保と岡田国神社との間にどの様な関わりがあったのか、にわかには思いあたりません。
そこで、どんな経緯で松平容保がこの社号標の銘に揮毫を寄せることになったのか、探ってみたいと思ったのです。
つづく
(※1)「木津町史本文篇」(木津町/1991年)624頁、表36
(※)故人および歴史上の人物は原則として敬称を略しています。
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