鹿背山城−木津の文化財と緑を守る会
鹿背山城とは
木津川市鹿背山の通称城山と呼ぶ丘陵に作られた中世城郭である。その城の大きさが中世城郭としては山城国No1の広さからして、城主は木津地域ぐらいの広さを支配する国人レベルの城でなく、一国を支配する勢力を持った大名クラスが作った城であることは確かでしょう。また、中世城郭のため石垣が全く無い城であるが各種防御施設の保存状態はよく、信長が上洛する直前期の城としてその時期の指標となる城です。
鹿背山城の見学について
中世の城(山城やまじろ)は近世の平城ひらじろと異なり、山の斜面を削ったり、土盛をして出来ています。そのため遺構が壊れやすい状態となっており、歩きにくい場所がありますが 文化財保護の観点から出来るだけ現状変更はしておりません。皮靴やハイヒールでお越しの方を見たことがありますが、鹿背山城を見学される祭は軽登山の準備が必要です。。
周辺には駐車場はありません、JR木津駅から公共交通または徒歩でお越しください。迷惑駐車防止のためご協力お願いします。
西念寺門前には絶対に駐車しないでください。
例年2月頃に「鹿背山城の見学会」を主催しています。ご興味のある方は是非ご参加ください。
鹿背山城の歴史
1.築城年代と城主の変遷
築城年は不明であるが、大乗院寺社雑事記の文明11年(1479)10月3日条に、興福寺の成身院(学侶)が入城している。また、同年10月25日条に木津執行や文明17年(1485)4月5日条にも古市氏が入城したことが記されています。これらにより奈良の興福寺がこの城を持っていたことが判明し、普段の管理はおそらく興福寺の衆徒である木津執行が当たっていたのでしょう。
その後、松永弾正久秀が永禄2年(1559)信貴山城を拠点として大和に侵入し、永禄4年(1561)奈良市に多聞山城を築城しました。この間に興福寺は松永に屈しており鹿背山城も松永が手に入れたものと考えられます。
そのため、鹿背山城の城主は第一次の興福寺と第二次の松永弾正久秀期に分かれます。
2.興福寺期(第一次)の鹿背山城
第一次(15世紀)の鹿背山城は松永期の城に比べ規模は大きいが、防御施設から見れば切岸も甘く第二次(戦国期)の鹿背山城と比較すれば防御的には弱い城といえます。
しかし、中世城郭史からみれば城は武士が作るものであり、寺や公家は作らないとする考えが常識でありますが、この城は興福寺が築城するという城郭史の常識を破る注目すべき城であります。
なぜ寺が城を作ったのでしょう。源頼朝は全国に守護を置きましたが、大和の国では興福寺が大和一国を支配していたため守護を置かさず自らが治めました。その背景には大和一国を治めるだけの軍事力を有しており、鹿背山城が史料に現れる室町中期の兵力でも畠山氏、細川氏、大内氏,に次ぐ大軍事力を有していたからです。
3.松永弾正久秀期(第二次)の鹿背山城
永禄2年(1559年)松永弾正久秀は大和に侵入し、同4年(1561年)には多聞山城(奈良市)を築城して本城とし、西の拠点を信貴山城(奈良県生駒郡平群町)、東の拠点を竜王山城(天理市)とし、北の拠点を鹿背山城とする四城体制を構築したと考えられています。山城国相楽郡には永禄5年(1562年)に徳政令を出すことから1561年頃までには松永の勢力下に入っていたと思われます。
鹿背山城を北方の拠点としたのは、水陸交通の要衝である木津を抑え、京都との連絡や北方からの侵入に対する防衛、並びに相楽郡の地域支配という重複役割を担う意味があったと考えられます。
秀でた築城知識をもつ久秀は、広範な第一次の鹿背山城を防御しやすい小さな範囲に収縮すると同時に、防衛施設の改修を行ってより高い防衛力を持つ第二次の鹿背山城に改造して、当時としては最先端の防衛能力を持つ強固な城に仕上げました。それが現在110mラインと呼んでいる多彩な防御施設が連なる跡です。
また、織豊期城郭のような石垣を用いた改修ではなく、中世城郭の形式を多く残した城で、織豊期直前の城としてその時期の指標となる城跡です。
目で見る鹿背山城
配置図と写真
- ①郭(曲輪)
- ②腰曲輪
- ③櫓台
- ④切岸
- ⑤平入り虎口
- ⑥食違虎口
- ⑦枡型虎口
- ⑧堀切(箱堀)
- ⑨堀切(薬研堀)
- ⑩二重堀切
- ⑪竪堀
- ⑫畝状竪堀群
- ⑬横堀
- ⑭土塁
- ⑮竪土塁
- ⑯水の手
- ⑰土橋
- ⑱武者隠
- ⑲Y字型防御
:撮影場所、クリックすると写真が表示します。
復元模型
2011年に作成した鹿背山城の模型はふるさとミュージアム山城に展示してます。
外部の施設にも出張展示しています。