『木津城の名称』について
木津の文化財と緑を守る会
会長 岩井 照芳
「鹿背山城何でも知ろう」講座が始まり、第1回の講演会は終了致しました。参加者は城郭を研究しておられる方、最近木津に移転されてきた方、南山城地域の方や奈良市の方々、遠くは岐阜県からの参加者もあり、守る会会員合わせて50名の参加でした。これまで鹿背山城の講演はどの先生方の内容も全て城郭史からみた鹿背山城の話でしたが、今回はじめて地域史・興福寺史からみた鹿背山城の内容でありました。
さて、話は『木津城の名称』のことに変わりますが、1月の広報「きづかわ」の最後の頁に、~木津城址(最近は城址ではなく城跡と書きますが・・・)公園にみんなで桜を植えよう~ との記事が掲載していました。
25年以上前から講演や現地見学会で言い続けてることですが、木津東山にある山城(やまじろ)名は「木津城跡」ではないので、木津城跡公園と付ければ間違いです。
京都府が昭和45年最初に名付けた名称が間違っていたのです。現在はまだほとんどの方が名称の事は勿論、城跡の存在すら知らない状況ですが、今後公園名になればみんなが使うようになり「間違った名称」が「本当の名称」のようになり、名称が周知した場合変更が非常に困難になり取り返しがつかなくなります。
史料に出てくる「木津城」は、木津本町(ほんまち)(旭住宅や南・北大路町及び1・2丁目辺り)にあった平城(ひらじろ)で、三好政康や香西の兵士3,000人が入城した大きな城です。
場所を示す史料として、木津城南口の戦いがあります。天神川原の戦いともいわれ、天神川原の場所は現在のいづみホール南側の163号線信号付近を指します。天神川原の地名を記した絵図もあります。(天神川原を木津町史掲載の写真では八色を撮っておりますが間違いです。八色は近くに天神社があり城戸(じょうど)町と言いますが、城戸の本来の名前は十王堂(じゅうおうどう)といい、じゅうおうどう → じょうど(城戸)に転化した地名です。城戸という地名は城とは全く関係ない仏教施設から来た地名です)木津城南口の戦いからも、本町に存在したことは間違いありません。他にもいろいろ史料や理由(木津氏の格式や勢力から見る)がありますが頁の都合で次の機会にでも・・・。
また、JR木津駅東の山城(やまじろ)、通称「城山」が、本町(ほんまち)にあった木津城(平城)の詰めの城という人がいますが、木津氏は興福寺の衆徒(筒井氏・古市氏と同格)という高い格式と大きな勢力を持った実力から見れば、一辺が50m~60mの単郭方形(曲輪が一つで四角形)の城では詰めの城として小さすぎます。また平城の木津城との距離が離れすぎています。
それでは何の目的で造られたのでしょう。この城は木津川の上渡(うえのわた)しや上津路(市坂幣羅坂から釜ケ谷を通り木津川に至る路をいう。興福寺の寺務はこの路を京都への往復のルートに使用しなければならないと決まっている)という重要な街道・釜ケ谷(木津高東側の谷)を抑えるための目的で造られた「抑えや見張り」の城であると思います。
さすれば、何という名前の城だったのでしょう。史料からピンポイントで明確に言える名称は出てきませんが、①興福寺の六法・衆徒・国民が木津を攻めた時、木津氏らは木津城を放棄し「一庄悉逃散し、上野山も取り云々」。(大乗院寺社雑事記) ②木津氏が松永久秀方から将軍義昭方に寝返ったので木津城を攻めるために、「三好義継、松永久秀は木津之上之山ニ野陣也」(多聞院日記)と記されています。
木津庄には山が少なく丘陵地域は釜ケ谷を挟む丘陵と梅谷地域だけです。このことから考えても、上野山もしくは上之山を指す場所はJR東側の城山以外に比定するところはなく、城の名称は上野山城もしくは上之山城で間違いはないでしょう。
公園の名称に城の名を付けるのであれば、上之山城とすべきでしょうがこの城名は全国に多くあるため、「木津上野山城跡公園」か「木津上之山城跡公園」にすべきで、少なくとも木津城ではないため、絶対木津城跡公園と付けるべきではありません。
< 追 記 >
3月25日 木津川市長に『仮称「木津城址公園」名称についての要望書』を提出しました。
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